6.152017
29歳から東欧医学部入学までの道のり : 前編
新卒一括採用が主流の日本では未だ大学卒業後に入社した会社が重要とされています。日本の典型的な社会人が歩むコースから離れ、自分の夢にチャレンジする29歳のKさんに「海外での夢の実現」について語ってもらいました。
◆ この記事の目次 ◆
医学部再受験
医学部再受験とは聞いたことがあるであろうか?
医学部再受験とは、高校卒業して、大学に進んだり、就職した後に医学部や大学の受験をしなおすことである。
また、多浪というのは,2年以上浪人をしている人のことである、このどちらでもあった私は最終的には、東欧の医学部の道へ進むこととなった。
個人的な体験談ではあるが,医学部入試の現状、再受験、浪人、についてのリアルを語ろうと思う。
医学部再受験を考えている人、医学部受験生、多浪生、受験生の保護者、絶対医学部に行きたい、そう思っている高校生に是非読んでほしい。
ただ個人の視点から書いたので、なんだこの話と思う人もいると思うが、そういう人は、軽く聞き流してください。
生い立ち
私の名前はKです。初めに自分が再受験に至るまでの簡単な生い立ちを書きます。
両親は医者ではなくごく普通の家庭で育った。小学生のころは、毎日が楽しくてしょうがないという小学生だった。小学校のころから、みんながスポーツ選手になりたいと思うように医者になりたいと憧れをもっていたが、本気で医者になりたいと考えたのは、中学の頃だ。
特に中学入試を受験することもなく、地元の中学校に進学し、部活に明け暮れるという生活だった。
ただ中学の勉強くらいは、頭の良しあしとか関係なく、要領はつかんでいたので、定期テストとかでは、割といいほうだったと思う。
私の祖父母は、徳田虎雄のことをかなり好きだったため、漫画で徳田虎雄の生い立ちを書いた『トラオがゆく』という漫画が祖父母の家におかれていた。
漫画の中で、トラオが病気の弟を抱え夜中に病院を訪れるが九州地方にある徳之島では当時医療体制が整っておらず、適切な治療ができず、弟は亡くなってしまう。
そんな悲劇を経験した、徳田虎雄は、『生命だけは平等だ』という信念のもと、当時医学部には到底及ばないような学力から猛勉強の末、大阪大学の医学部に合格し、後に徳洲会病院を作っていく。
今でこそ社会を斜めに構えてからしか見れず、ひねくれた性格の私であるが、本当に何も苦労なく温室で育った当時の自分は、中学生にしては珍しいいくらいピュアで、無駄に正義感の塊みたいな少年だったので、感動し、医者になりたいと思った。
部活の終わりも近づいた時には「医師になる」夢を実現するべく猛勉強し、県内で医学部への進学者を数名排出している高校に入学することができた。
高校時代は、再受験の動機として大きくかかわっているのは高校時代である。
高校時代・大学・就職
よく高校デビューということを聞くと思うが、自分の場合をの真逆で、高校没落である。
中学時代たいして頭がよくないくせに高校受験を短い期間で成功させたため、高校も高校3年になって勉強すれば医学部も大丈夫だろうなと過信していた。高校1年には部活に明け暮れ、勉強も予習がやっと成績は最下位だった。&nbap;
進学校のきついところは、同じ条件でやってるのに意識高く時間の管理もうまい人っていうのがいて必ずそういう同じ環境でもなんもかもうまっくやってのける人がいるってことだ。
当時の自分は、どうせ自分なんか駄目だろうと、性格もすごくひねくれてしまっていた。高校時代ではいろんな挫折を経験した。
ただ、その経験の中で、ある意味いい経験をすることができた。
それは自分も含め人には二面性があるということがわかったことだ。(男女関わらず)さわやかで素晴らしく見える人でも、高校時代のような落ちこぼれの自分には、どっからそんなひどい言葉がでるんだっていうくらい、人にひどい扱いをする人もいる。そして対外そういう人の希望は、理系なら東京大学か医学部志望である。
たまたま最近あったドラマで『囚人セブン』っていうのがあったけど、自分の視点からは、そういった人たちが、囚人セブンのドラマの中の中の人物で、表はさわやかで、大志を掲げるけど、囚人に対しての扱いはひどい扱いであるような人で、自分は老人の梅さんみたいな無力な感じであるかなーって今は感じた。
ただその中でもこんな自分に対してもいい面をみせて接してくれる友人がいたことは、うれしかったし、それが高校時代の財産だ。
そんな人ほど、当時の自分目線では医学部に行ってほしかったけど、研究職につきたいと他の学部に行った。
進学校に行けばわかると思うが、たいてい医学部っていうのは、受験という競争上の目標であって、医者になりたいっていうのは、まあいろんな気持ちがあるけど。
動機なんて人それぞれで、今は、どんな動機でもいいと思っている。
当時の自分もいつしかなんで医者になりたいかっていうのもわからなくなり、受験競争にのっかり、必死で勉強してた。
医学部も運が良ければいけるだろうってくらいには、三年生の時にはなっていた。ただその時にはなんで、自分が勉強しているかわからない状態になっていた。
受験本番が近づくにつれて受験競争って中で医学部を目指すっていうのに嫌気がさしてきた。
センター試験もまずまずで医学部は、2次が取れれば滑り込みで合格できるかなっていう感じだった。今考えれば現役生の甘い憶測だけどそん時はそう思ってた。
ただ、その時家族の中で病気の人がいたため浪人はできず、実家から通える確実にいけるだろう国立大を受験し合格し、通った。大学ではいろいろあったけどここでは関係がないので割愛します。
大学卒業して職業名は避けますが、世間でいう安定している職業についた、親家族も祖父母も喜んだ。自分自身もいい職業であると思いこの仕事で一生やっていこうと決意した。
社会人
初めのうちは、すごくやる気に満ち溢れていた。ただやる気だけではどうにもならない職種だった。
やれることは、身を削ってやった。努力もした。何よりも仕事を優先した。
しかし一年目はうまくはいかなかった。職業がらいろんな職業や人と触れ合うことが多くいろんな社会が見れた。
いろんな失敗もした職場では新人という立場であり、上司で仕事もできていいなーって思う人もいたが、立場が弱いほど、その人の違う面が見れた、社会人では、新人に対する、扱いは、いじめとかではない、なぜなら、できる人の言うことが正義だからだ。
つまりそういう扱いを受ける方は、悪なのだ。失敗するごとに自分がだめであると同時に悪い奴と感じるようになってきた。
よく、なぜいじめがおこるのかって社会で議論されるけど私なりに思うことは、見た目だったり、いろんな理由だったりするけど、一つにまとめると、いじめる側はいじめる時点で判断して絶対に将来的に自分に返ってこないだろうという前提で人をいじめるのだ、特に今後変わらないであろうことに対して。最近話題となったゲスのボーカルなんかに対する、世間の扱いもそんな感じがする。
確かに悪いことをしたがそこまで攻撃せんでもって思う。
すなわちいじめられるのは、現時点での絶対的弱者であるのだ。なんていろいろ考え過ごしている時、仕事で自分の力のなさから、仕事で人の人生をきずつけるようなことをした。
努力で解決できるものでも、仕事量で解決できるものでもない。取り返しがつかないことだ。その人の人生をきずつけた事実は、何をしても変えられないのだ。
2年目からは変わった、失敗しないようにしようとした。何事も無難にこなした、なにかするより失敗しないことが一番だった、自分の仕事ぶりによって人が良くなるとかじゃなく。何に対しても最低限ですまそうとした。
その時から何とも言えない虚しさを感じた。ただ二年目以降は仕事は問題はなかったと思う。よかったとかではなく問題はなかったのだ。
そんな中高校の同窓会があった、社会人になっているひともいれば、長く浪人して学生の人。
特に医学部に入った人は、まだ学生が大半だった。
そこで浪人して医学部に入った人(特に仲良くないが名簿順でまん前だった。)と話していると、普通に話していたのだが、私が高校時代一緒くらいの成績だったよね、浪人時代頑張ったんだというと、一緒にされたのが、その人のプライドをきづつけたのか、突然その人は酔っていたのもあってか、さっきさお前の友達で、コメディカルの人がいて、もう頑張ってる人がいるって、いったけど私と一緒にしないで、というか、何年働いてるか知らんけど、お前もどうせ、○○の職業(精神病む人が多い)やって精神病なるんだよ。
だから早く働いていようと一緒なんだよと言われた。私は、確かにきついから病気になるかもねーと聞き流したが、自分は馬鹿にされる耐性がついているがいいが、新人として一生懸命働いている看護師やPT,OTの友達のことをそんな風に言われたのが許せなかった。
他にも別の機会だが、なぜか居酒屋で見もしない医学書開いてる同級生で医学部生を満喫してますって感じの知り合いともたまたま話す機会があったが、なんで医学部にいったかっていうのはお察しのとおりである。
友達の中では、日本一難しいような大学の医学部に合格してなんでそんな謙虚でいい人なのっていう人で、今現在医者として働いている人もいるけど、それは本当にごく一部で大半の医学部に行った同級生の知り合いはこんな感じで、弱っている病人に対して接するような人ではないような人が大半だ。
と当時の私には浅はかにもそう感じていた。
あと少しで医学部に届いた高校時代、何ともいえない空虚な社会人である現状、社会人で接した人々との出会い、トラオの生命だけは平等だに純粋に憧れ医師を目指した純粋な中学生の時の自分と、いろんな思いが重なった。
そして自分が医者になりたいそう思った、今考えれば、お前がなんなくても他になる人でいい医者もたくさんいるんだから、なんでそんな大した能力もないお前がそんな熱くなってるんだよって思うけど。
そん時は変に正義感を振り回す、若い社会人であった私は、医学部を受験することを決めた。
このように文に書きおこして今当時の自分を振り返ってみると正直今でいう扱いにくい典型的な新社会人で、理想だけ高く、能力もないでなんでも周りのせい、悪いのは周りだってね。そして仕事もやめたいとか、少し恥ずかしいですがその時の気持ちは、そのままこんな感じでした。
再受験
再受験を決めてからは猛烈に勉強した、自分で妄想している高い志のもと…、そして最初受けた大学のことを書く。
センター試験はコツをつかめれば短期間でも高得点は可能だ。最初の時は、8□○点だった。
二次試験前に合格を確信した。どう考えても逆転されない、二次試験の筆記も完ぺきではないが、合格点である。そして2日目は面接であった。ここで今覚えている限り自分の視点からの面接のだいたいの感じを伝える。
自分 入室する。
試験管 モゴモゴ
自分 ?(えっなんていってるかわかんないんだけど)
試験管 経歴(超小さい声)
自分 ○○高校卒○○大学卒…現在に至る……以上です
試験管 あっ立ってないで座れば。
自分 はいすみません
試験管 で
自分 ………
試験管 志望動機教えて
自分 はい……だからです。
試験管 そうですか。君卒業してから結構たってるね、まあ若いけど(社会人としてはまだ若手なんだけど)、 正直年取っている人が医者になって社会的な価値ってあるようには僕には思えないけどその辺どう思ってる?
自分 ………です。
試験管 そうですか。なんでこんな汚い県に来たの?卒業した後やっぱり地元に帰るつもり。
自分 そうですかね。とてもきれいなところであると思います。卒業できて学んだところで恩返ししたいので、そこに残って働きたいと思います。
………
まーその後も、少し続いたけど、だいたいがホント形式的で、あとは、全体的にわざとなのかは知らないけど再受験生に対して悪意むき出しの質問だった。全体で10分と短かった。
そして何とも言えない感じのまま帰った。ま大丈夫かなって。
そして結果発表…見事不合格だった。えっと思った、なんで?でもまあなんかセンターミスったのかなーとか、やっぱ医学部は二次もめっちゃとるんだって思って普通に悔しいと思っていた。
しかし、仕事も止めその新しい時には宅浪をはじめていたのだが、4月に帰ってきたセンター試験の結果を見る。
8□〇点、自己採点と一点も違わなかった。
ん?じゃあ二次でめっちゃ字汚いから点数ひかれちゃったかなー。と考え6月まで猛勉強し宅浪ライフを満喫していた。
そして、入試の2次試験の点数開示ができる時となり、一応どのくらいとどかなかったのか開示請求をしてみた。結果筆記試験は全体として7割5分は取れていた。
だが、面接点がなんと、普通に点を取った人とくらべたら、一教科0点と満点の差がつくような点数だった。そして合格最低点にあと一点というところだった。
正直わけがわからなかった、親に言ってもいつまでも言い訳言ってないのとか、友達とかは結果しかわからないし、面接がだめだったとかただのいいわけだろとか言われるし、この虚しさと、向けるところのない怒りをどこにむければいいのかわからなかった、面接点が普通にもらえていれば合格者平均点を軽く超えている総合点だったのだ。
まあこれがいわゆる泣き寝入り状態かって思った。
かなりショックだったけど、今年こそ面接点ないところで受かろうとやる気をもってやった。
なさけないことだが社会人をしていたから変にプライドがあって、朝から近所の人に会って図書館とか行くのもなんか恥ずかしくなって、家にこもって悔しさから17時間は勉強していた、ホントバカだった。
絶対に落ちたくない、そん時はほんと異常だったと思う、友達ともほとんど連絡はとらなくなった。
そんな夏の日、小学生からの友人が出かけるぞと誘ってくれた、その友達Hは、自由人って感じだけど、どこに行ってもリーダって感じで全身からすごいオーラが出ている。
今はベンチャー企業の社長。超かっこいいスポーツカー
その友達と海なんて、まぶしすぎる。しかも勉強時間を一分でも無駄にしたくない…と思っていた。
今思うと自分ホント異常だ。ただ、半ば無理やり海につれていかれた。結果まぶしかったけど、一気にストレスが吹き飛んだ。本当にありがたかった。
振り返って思うのは、どんな人に対しても、いい面しか向けない友達Hってすごいと思った。その後数か月たち模試の成績もほぼ、100%合格に近い形だった。
しかし無理がたたってか自分としてはストレスが溜まっているはずではないのに座っているだけでふらふらし息ができなくなり、のどが絞まるような症状が現れ始めた。
何かおかしい12月一番大事な時に一時間もすわっていられない。病院嫌いになっていたのだが、あまりにも身体的症状がでるので病院にもいったが、異常はなかった。
ただ体は異常があるのだ、インターネットでもいろいろ調べたがわからなかった。その時は、センターを一日受けるそれがせえいっぱいだった。
一日座ってるだけで、顔が真っ青になってしまっていた。なんとかセンター試験を終えた。去年に比べたら落ちていた、模試とは100点くらい違った。
ただ、前期も後期も出せるくらいの点数であったから許容範囲だ、前期後期は、岐阜大学を受けた。
ここで名前を出すのは、岐阜大学はありえないくらいクリーンな入試をしているので文句のつけようがないからだ。
面接は点数配分は0点形式も受験生同士が話合う形式だ。
面接もただ楽しかった。試験自体もかなりぎりぎりだったっと思う。
身体症状にたいしては何とか姿勢を変えたりしながら、苦しくならない状態を考え出し、試験に臨んだ、ただ瞬発力がだせなかった。
結果完全に岐阜大学には完敗した。体調管理も浪人生にとっては実力だし、試験にたいしても万全でない状態で余裕なくらいの学力がなかったのだ。完全に完敗である。ただ去年のような感じではない。
すっきりした。ただ、あせりは半端ないものになってきた。兄弟姉妹や親にもかなりの迷惑をかけている、大の大人の受験生なんて家族からみたら恥ずかしいに違いない、そんな風に私は思っていたが、家族は後悔ないように、もう一年だけやってみなさいと言ってくれた。
友達Hや他の友達もホントお前何歳で浪人してんねん、面接とかのせいにしてないで、今度だめだったらきっぱり縁がなかったって思って、あきらめなって言ったが、言葉とは裏腹にホントはすごく真剣に言ってくれる友達がありがたかった。
涙が出た。
当時まで長く付き合っていた彼女とも、さすがに申し訳なくなり別れた。
これは相手のこともあるのでこれ以上は語らないけど、ほんと自分にとっては区切りをつける、
一年にするつもりで、次の年は、関東の某大手予備校に行った。小さなアパートを借りた絶対今度こそ。
(後編へ)
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